イベントレポート - Foret

紙の箱づくり体験教室 レポート

豊臣秀吉の栄華を求めて レポート

みなさん、京都にも大仏があったことをご存知でしたか?実は、現在の京都国立博物館あたりには「方広寺」という大きな寺があり、そこには大仏が存在したのです!それを作らせた人物こそ、あの豊臣秀吉。今回のらくたびツアーは、初の東山七条界隈で、天下人・秀吉の栄華の跡を巡りました。

まずはじめに、「正面通り」を歩きながら「耳塚」を訪ねました。この「正面通り」は、現在、「豊国神社」の正面に通じているので、うっかり「豊国神社の正面だから“正面通り”」と思っている方もおられるかもしれません。しかし、正しくは「方広寺大仏の正面だから“正面通り”」なんだそう!

その正面通りを歩いていくと見えてくるのが「耳塚」。秀吉が行った朝鮮出兵の際、敵を討ち取った証として、首の代わりに耳や鼻を塩漬けにして持ち帰りました。その後、戦死者の菩提を弔うために作られたのが耳塚です。しかし“耳”塚というから小さなものかと思いきや、実際に尋ねてみるとびっくり!かなりの大きさです!それだけ大きな戦だったというのが偲ばれますね・・・。
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▲らくたびさんの解説を聞かれる皆様の姿と比べてみると一目瞭然の巨大さ

そして次に訪れたのが豊臣家の栄華の跡が残る「豊国神社」と「方広寺」です。
「豊国神社」は豊臣秀吉を祭神とする神社で、秀吉が死後に東山の阿弥陀ヶ峰山頂に葬られた後に、その山腹に建てられました。その後移されて現在の場所に立っており、国宝の唐門はもともと伏見城にあったものだそうです。
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▲左:国宝の唐門
右:なんと絵馬の形が秀吉の馬印だった「ひょうたん」型!

そしてその隣にあるのが「方広寺」。かつては今の京都国立博物館の敷地すべてが境内という広大な寺院で、奈良の大仏を上回る巨大な大仏が秀吉の手によって建立されました。今ではその面影が残るのは、大仏殿に使われていたと思われる立派な石垣のみ・・・。その後、息子秀頼が金銅大仏とともに建立した梵鐘に「国家安康」「君臣豊楽」と刻まれており、「家康の名を引き裂いて呪おうとしている!」と抗議され、「大坂冬の陣」のきっかけを与えてしまい、豊臣家は滅亡してしまうのです。
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▲「国家安康」「君臣豊楽」の部分だけ白くハイライトされた方広寺の梵鐘
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▲まさに兵どもが夢の跡・・・な、方広寺大仏殿跡

そしてこの日から特別公開されている「妙法院」へ。妙法院の見どころは、何と言っても「日本一大きな台所」!妙法院の庫裏(くり)は、国宝にも指定され、秀吉が方広寺の千僧供養を行った際に、千人分の食事を作ったという記録が残っています。
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▲内部は撮影禁止でしたが、3階建ビルぐらいは余裕で入りそうな高さの吹き抜けがあり、本当に千人分の食事が作れそうな広さでした!

最後に訪れたのは「三十三間堂」。ここにあるのは「日本三大塀」の一つ、「太閤塀」です。なぜ三十三間堂の南大門付近の塀が太閤塀と呼ばれるのか。それは、三十三間堂の南大門がもともとは方広寺の境内の南限にあったからなんだそうです!方広寺って、本当に大きなお寺だったんですね。
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▲南大門と太閤塀。太閤塀の瓦には豊臣家の家紋「五七の桐」があしらわれています。あと2つの日本三大塀は名古屋市の熱田神宮の「信長塀」、西宮市の西宮神社の「大練塀」だそうです。

南大門がまたぐ南北の通りを挟んで、三十三間堂の東側にあるのが「法住寺殿跡」。ここは、平安時代末期に権力をふるった後白河法皇の邸宅があった場所。実は、向かいにある三十三間堂は、後白河法皇が日々参るためのお堂として法住寺殿に建てられたのだとか。今の感覚でいうと、家の中にあるお仏壇感覚で三十三間堂を使っていたなんて、スケールが大きすぎますね!
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▲どことなく中国風の楼門が迎えてくれる法住寺殿跡

実は、このところ雨に見舞われていたらくたびツアーでしたが、この日はなんとかツアー中は雨に降られることもなく街歩きを楽しめました!(ツアー終了直後に降りましたが・・・)
教科書に載っているような有名な場所も、そうでない場所も、毎回、らくたびさんのお話で目からウロコが落ちっぱなしのこのツアー。次回もどうぞご期待ください!

フクロウ

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